碓氷健吾氏  碓氷さんの知恵袋

このページは、碓氷健吾氏が会報・講演用などに書き記した貴重な資料を集めました。
鉋の基本的な知識から専門的な話まで、また後半には「削ろう会」の会報に連載中の
若いころの興味深い話などがおもしろく書かれています。



  碓氷健吾氏が、実際に鉋を使う大工さんと同じ目線で話ができるようにと
 60歳を過ぎてから研ぎを勉強し体得されたことを文章にされました。
 その原稿をもとに(株)橘産業 石黒敏正が編集いたしました。
 ご自分の研ぎの参考にご活用ください。(平成17年9月9日) 

                    私の鉋の研ぎ方





            鉋と鋼     越後与板 碓氷鉋製作所

1:鉋の歴史
  鑓鉋(やりかんな)
    古墳時代から古代・中世にかけて縦挽き鋸がなかったのでノミ・クサビを打ち込んで木目に沿って
     裂き割る方法で製材した。 打割った粗い材面はチョウナで粗削りし、仕上げ削りをするのにヤリカンナが
     使われた。

  台鉋
    15世紀初頭に大陸から製材用縦挽き鋸「大鋸(おが)」が伝来し、自由に製材ができるようになるにつれて、
     室町時代半ばに台鉋が伝わり柱や板の表面仕上げが効率的かつ精密になった。伝来当初は把手のついた
     押し式であったが、間もなく現在同様の引く形に改良された。職人が技術の精巧さを競い合うようになった
     江戸時代の半ばには今日の鉋の種類がほぼ出揃ったと伝えられる。

  二枚刃鉋
    明治37年後半材料の逆目の立つのを防ぐため、鉋刃に併せて裏金を装置した二枚刃鉋が現れ、
     素人にも使いやすくなったが、普及は遅れ関東大震災後の建築ブームで一気に伸びたと言う。


2:和の刃物の特徴・鋼と鉄について
  日本の刃物の大半は鋼と地金の複層構造になっている。鉋も例外ではなく硬い鋼と軟らかい鉄が
   鍛着されている。 鋼は刃金ともいい炭素を含有した鉄で、焼きを入れる(熱処理をする)と硬くなる、
   刃物として大切な性質を備えている。
   鉄(Fe)と炭素(C)は非常に化合しやすく、鉄の中に炭素が入ると化合してセメンタイトという
   炭化物(Fe3C)になり熱処理をすると非常に硬くなり15倍の威力を発揮する。
   だから炭素量の多い少ないによって軟らかい鋼、硬い鋼に区別され、用途に合わせて用いられる。
   以下にC(カーボン)含有量による鋼の呼称について記述する。


 C% 0 〜 0.02 〜  2.1  〜  6.7
    |←鉄→|←鋼→|←鋳鉄→|
  刃物は一般にC含有量1.0%〜1.4%を使用
  C=0.15%・・・・・・・ 極軟鋼
 C=0.2〜0.3%・・・・軟  鋼
 C=0.3〜0.5%・・・・半軟鋼
 C=0.5〜0.8%・・・・硬   鋼
 C=0.8〜1.2%・・・・最硬鋼
鉋の製造工程

1 2 3 4 5 6 7
鋼づくり 鋼付鍛接 鍛伸
(鍛造)
焼きならし 火造り鍛錬 火造り鍛錬 焼きなまし
地金づくり
(練鉄)
地金1200〜1300℃ 鋼950℃前後
地金1050〜1100℃
鍛接の余熱
打上げ温度
約750℃位
粗大結晶を
小さくする。
球状化し易くする。
約950℃
高880〜900℃
中840〜850℃
(球状化)
炭素鋼820℃前後
低 約750℃
黒打ち 約650℃
(微細化)
内部応力の除去難化して加工を容易にする。焼き割れ防止約750℃で3時間保持・除冷
8 9 10 11 12 13
岡ならし
仕上げ
焼入れ 焼戻し 歪直し仕上げ 研ぎ入れ
(研ぎ職)
台仕立て
(台打ち職)
約400℃位で鋼の組織の均一化 鉋の寸法を決め表・裏の成形 炭素鋼780〜800℃特殊鋼800〜830℃水温20℃前後・油60〜80℃位 木炭・コークス・鉛バス 約160〜200℃焼入れで硬くなった鋼に粘りを与える 狂いをとり総仕上げをする 研ぎの職人が研ぎをする 台打ち職人が台打ちをする。
鋼の成分と効用

 炭素鋼

スウェーデン
・白紙1号
炭素 C 1.20〜1.40 硬さや強さを増す元素。多いほど硬くなる
珪素 Si 0.10〜0.20 硬さや強さを増す元素。炭素の1/10
マンガン Mn 0.20〜0.30 焼入れが良くなる元素。鋼に強靭性を与える
P 0.025以下 有害元素。寒い時鋼をもろくする
硫黄 S 0.004以下 有害元素。鋼を赤めた時もろくなる
上記に加える
・青紙1号 クロム Cr 0.30〜0.50 磨耗に強く錆びにくく焼きが入り易い
タングステン W 1.50〜2.00 温度が上がっても軟らかくならない
上記に加える
・青紙
  スーパー鋼
モリブデン Mo 0.30〜0.50 高温加熱時鋼の結晶粒の粗大化を防ぐ
バナジウム V 0.30〜0.50 鋼の結晶粒を細かくして非常に硬い炭化物を作る
耐摩耗性の向上

各鋼の特長
炭素鋼 研ぎ易く、光沢が出る素性の良い材料向き。
青紙鋼 一般大衆向きで無難です。 一般材料向き。
スーパー鋼 硬くて永切れします。 万能向き。
          鉋の刃研ぎと角度
            28〜29°=一般材木用 ・ 29〜30°=樫木用、洋材、また特殊鋼使用の鉋
◎ いかに適正な硬度の鉋でも刃角度をあまりに鋭角にすると、かけたり目には見えない刃こぼれが生じる事が
      あり、またこの様な場合甘口と勘違いされる事があります。
◎ 仕上げ砥石では砥ぎ汁を流さないで軽く回数を多く砥ぐ様にして、切り刃と裏砥ぎは7:3の割合で砥ぐ。
   また裏押しが悪いと良い刃がつきません。
◎ 裏鉋(裏刃)
    刃先を急に60°の鋭角に砥いでください。

 

削ろう会十年を顧みて(1)

碓氷 健吾      「削ろう会」 会報 第44号 掲載

 「削ろう会」会報 第44号です。
 表紙は碓氷さんの写真で今回から碓氷さんのお話が連載で始まりました。
 他にも「削ろう会」の開催時には詳細が掲載されます。
平成9年2月に削ろう会誕生し、はや十年が過ぎました。大工道具一筋に志を同じくする皆さんが集まって、遊び心と
楽しみながら
お互いに技術を向上していこうではないかと始まった会が、この十年間で一体どれだけ多くの人様との
出会いがあっただろうか。

しかも先達棟梁さん始め、天然砥石の調査研究されていた先生、
究極の刃物研ぎを求めて物理的応用研究されている
先生、熱処理を本業としながら冶金学研究されている
先生、削りの名人といわれて模範削りをしていただいている方達。
このような素晴しい方達と一緒に出会うことが
できるのは、人間として、また一職人としてこんな幸せなことはないと思います。
また、同じ業者においてはお互いに
ライバルであり仲間でもある。ゆえに切磋琢磨し、和やかな対話の中に新しい情報と技術を
キャッチし、
十年前と現在とでは格段のレベルアップを致したのではないかと思います。
このような素晴しい削ろう会を
伝統的木造建築と日本の木の文化、また後継者育成のためにもお互いに協力し合い、
和をもって末永く続くことを
願っております。
削ろう会に参加してショックを受ける
 私は第一回目は残念ながらまだ体調が快復していなかったので参加できませんでした。福井大会に参加し、
会場を回ってみましたら、昔の有名鉋始め、いろいろとご自分の好みに合った鉋を使用されておられたようですが、

中に戦後、輸入材で削りにくい材料のために適応したスーパー鋼で造った私の鉋を使用されておられましたが、
果たして薄削りにはうまくいくか心配でした。10ミクロン位なら完全に研ぐことができればと思っておりましたら、
案じていたようにこの鉋に合う砥石はどのような砥石が良いかと聞かれ、鉋には昔から巣板が良いとか、中山砥は
良いけれど高値でなかなか手にすることができないということぐらいは、永年鍛冶をやってきていますので棟梁さん達
から聞いてはいました。自分でも少しは研いだり削ってはいましたが、実際のことは何もわかっておらず、返答に窮した
次第です。また若い棟梁さんに削りにおいて、ビビルのはどこが原因かと聞かれ、これは鉋の造り、台の仕込、台直し、
削り手といろいろと原因があると思いますが、何といっても鉋身が一番元になる訳です。
 弟子の頃、親方に鉋の裏スキと表馴染みのスキ具合を厳しく云われましたが、この微妙なところに表れるのかと
痛感いたしました。今まではおそらく鍛冶師においては、顕微鏡で鋼の組織や焼入硬度等の熱処理の勉強は
みなやってきたと思いますが、これは基本的なものであって、出来た製品を金物店やお客様に納めて後は、何とか
無事に務めを果たしてくれることを願っておったのが現実ではないかと思われます。そして棟梁さんからたまに
薄い削り華が送られてくると、私など家の宝として保管していたものです。
 削ろう会においてはそんな訳には参りません。自分で研いで、削ってみて、初めて刃物の真価がわかるので、
それには砥石のこと、台のこと、刃物の角度による変化等を本格的に勉強しなくてはと、ショックを受けた次第です。
それで初めて削り手の皆様と同じ目線で話し合いが出来る訳で、老齢の身にムチ打って、また自分の生きた証を
残すためにも頑張っております。
 与板の削ろう会大会において、ある有名棟梁のお弟子さんから、自分も初めて参加したいとの電話連絡があり、
楽しみに待っておりましたが、当日彼はただ見て回っているだけですので聞いたら、今日は道具を持ってこなかった
と云われました。そこに私の鉋が三丁ほどあるから削ってみれよといったのですが、首を振って私の知り合いの腕利きの
大工さん達の話し合いを傍らでじっと耳を傾けて聞いているではありませんか。
 そして帰られてから、一通のお手紙が来ました。どう見ても自分より若くて年季も浅いかと思われる若い人達が
見事な削り華を出しているので大変ショックでしたと書かれていました。私は彼の棟梁さんのところは二回も行って
いますので、彼の研ぎと削りの腕は承知していたのですが、万が一のことを考えておられたものと思っております。
これは私と彼の二人だけだと思いません。他にもあったと思いますが、経験することが大事なことだと思いますので、
ぜひ大勢の皆様もどんどん参加され、疑問点があったら恥ずかしいなど言わないで、遠慮なく、立派な指導者も
おられますのでお聞きし、腕を磨いて下さい。
 「聞くは一時の恥、知らぬは一生の損」です。
私の投稿について一言

私の不用意からこの度六月に三回目の癌を再発し、入院しました。その翌日家内から電話があり、秋の関市
においての
削ろう会には勉強会を開きたいので、杉村会長さん始め、二、三の役員の方から私にも何かお話を
とのことでした。
早速病院の先生にお聞きしたら、10月はまだ無理と言われたので、お断り申し上げた次第です。
杉村会長さん始め、役員の方が私がさぞ力を落としているのではないかと、何かと励まし、元気が出るようにと温かい御慈愛を
戴きましたことを心より感謝申し上げます。
 その後杉村会長さんからお電話で、「無理しないで一頁でもいいから出来たら投稿してみていただきたい」とのことでしたので、
ボケた頭を承知の上で書いてみましたので、いろいろあるかと思いますがお許し願います。
 次回はこの十年間でいろいろと変わったことについて、私なりに思いついたことを書いてみたいと思っております。
 写真は十年間で集まった天然砥35丁の一部と人造砥10丁位です。御参考までに。
(買ったもの、頂いたもの、
鉋と交換したものです。)
 治具の写真は生地で造った裏出し台です。
 次回はこのようなものを参考にして、お話してみたいと思っております。     〈次号につづく〉

天然砥の数々(1) 天然砥の数々(2)
人造砥の数々 裏出し治具
 
削ろう会十年を顧みて(2)


碓氷 健吾      「削ろう会」 会報 第45号 掲載

「モノ造りには先ずその道の歴史のひもを解け」 (北大路魯山人の名言)

 私は鋼のことでよく島根県安来市の日立金属会社や吉田村の鉄の歴史村「たたら製鉄」の催し等に行く機会があり、
時間があると足をのばして足立美術館に行くのです。たまたま運が良くて、横山大観と北大路魯山人の展示会があり、
魯山人の作品の脇に伝統的なモノ造りをしようと思ったら、先ずその歴史のひもを解け(伝統的とは百年の歴史を意味
する)と国の伝統的工芸品認定条件のひとつになっています。百年前の物を造ろうと思ったら、200年、300年前の
歴史のひもを解けとの添え書きがあったことが今でも私の頭の中にこびりついています。
そうしますと、大工さんなら当然1,300年前に建てられた法隆寺を指し、法隆寺といえば、西岡常一棟梁を思い
浮かべると思います。
幸いにして西岡棟梁さんは「木のいのち 木のこころ」「薬師寺について」の本を書いておられます。
私共刃物鍛冶においては、やはり日本刀を指し、また玉鋼のことにもなると思います。刀も大工道具も室町時代までは
何とか文献や資料となるものがあるようですが、正宗の名刀の鎌倉時代となると、正宗の工房の跡は残っておりますが、
資料となるものはないようです。しかし私共素人が一般論として考えますと、誰もが正宗の名刀となると、何回も何回も
折り返し鍛錬されたのではないかと思うのが自然ですが、X線で調べたら、三回くらいの刀もあることを私は聞いたことが
あります。そうすると素材が良いのではないかと思います。ある文献によると、鎌倉時代にはある程度製錬技術や
鍛造加工、熱処理等も進んでおったようですが、古刀の素材となる特別の刃鉄は、ほとんどが自家製鉄が
行なわれていたようです。このように歴史のひもを解いていくと、自ずと使用材料がわかり、どのような工程で
造られたかも、おおよそのことがわかってくるのではないかと思います。そして使用目的(美術品刀か実戦用か、
また鉋においては軟材の薄削り用か実用的な万能向きか)がわかれば、それに適した材料を選び、邁進すれば
よいわけです。また先達者の永い経験と知恵によって造られた技術も今は科学が非常に発達していますので、
科学の力を借りて理論的な裏付けが得られると思います。しかしただそれだけでは何も新しい発想や創造は
生まれません。それらを元にして実際にいろいろとやり、研鑽を積み重ねることによって、いつかヒラメキが湧き、
新しい発想につながるのではないかと思います。

時代を先取りした直使い鉋の誕生

 私は戦後の鍛冶ですので、今から60余年のことしかわかりませんが、弟子入りした当時は戦災復興の好景気で、
鉋の型さえできれば売れたものです。また大工さんにおいては、俄大工さんまで現われ、道具に関する関心も薄れて
きたのではないかと思っていたのです。
しかし戦災復興もそろそろ下火となってきて、やれやれと思っていたら、今度は朝鮮動乱、福井地震、それに追討ちを
かけるように所得倍増政策の影響で建築ブームが起こり、すべてが量産体制に入りました。それらを見据えて
大手企業が電動工具に進出し始め、電気鉋も現われ、手動工具の需要が落ち込むのではないか、とある金物商が
大工さんと本職の台屋さんを抱え込み、鉋を本研ぎし、台の調整も完全にし、台が狂い難いように油台とした。
また、鉋の品格と高級品イメージを高めるために包口台を開発し、販売したところ、大工さんは何も手を加えないでも
直ぐ使えるので、飛ぶように売れたようです。当時はそれでよかったのではないかと思います。
刃角度や油台の問題点も出てきたのではないかと思いますが、それらについてはまたの機会に致したいと思います。

激しい時代の流れの移り変わり

 建築構造がどんどん変わってきて、プレハブ住宅に続いて、ツーバイフォー(2×4)工法、そして今度は
プレカットシステムによる住宅、そしてまたまた超仕上鉋機械の進出に超鋼の替刃式手鉋。
一体私共の伝統的手動工具がどうなるのか、また日本の木の文化を守っていけるのかと心配いたしているときに、
「削ろう会」が誕生し、遊び心で技術の向上を図っているので、みんなが和気あいあいで、年々会員も増加し、
全国的に削ろう会が知れ渡ってきていることに感謝致しております。
 次回は鋼の選択について、お話してみたいと思っております。

                                                〈次号につづく〉


ライン
出会い・思い出 「名工を訪ねて」 その一
  
      碓氷 健吾      「削ろう会」 会報 vol.15 掲載
 この道一筋に一生をおくられた先達方。またその技の伝統を守り抜こうと頑張っておられる職人さんは、どの分野にも数多くおられると思いますが、自称名人ではなく、誰がいうともなく大勢の人たちから、自然に名人・名工と尊敬せれ慕われておられる方。またあらり陽の当たることのない田舎で、野鍛冶としてすばらしい腕を持った逸材もおられると思います。それぞれ強い個性を持ちながら、非常に優れた人格を磨きあげ、仕事に対しては一徹の厳しさをお持ちである方が多いと思います。
私は運が良いと申しましょうか、幸いにも鍛冶業界、特に鉋に関係のある名人・名工との評価の高い多くの方々にお会いできたのを今さらながら感謝しています。なかには鉋の地金の沸かし方から焼き入れのコツまで、手を取って教えて下さった名工もおられました。また、先達のお話を伺っていて、秘伝と思われることを一つ二つと教えていただきながら、当時は経験不足から、分かったような分からなかったような秘伝の意味が恥ずかしいことながら、今となってようやく理解できて非常に役立っている始末です。生涯現役を自覚しながら、修行中に得た心に残ったあれやこれやを皆様のご参考になれば幸いと書き綴ろうと思います。
 私の人生の後半に生まれた削ろう会で、鉋について考えを述べるなどとは考えてもみなかったので昔の記録や写真は全く保存しておらず、記憶を辿ってのことですから、間違いがないとはいえませんがお許し頂きたいと思います。
千代鶴延国師のこと
 昭和28年10月頃と思います。私がまだ旧姓遠藤のころで、独立開業して1年と半年足らずを経た25歳の時でした。現在は義兄にあたりますが、碓氷金三郎さんが昼休みに現れて、「今晩夜行列車で東京の三代目千代鶴延国(落合宇一氏)さんと、そのお師匠さんの千代鶴是秀翁を訪ねるので連れていってやる。すぐ支度して同行しないか」と誘ってくれました。従弟のころからお二人の名前は聞いていましたが、刃物界においてあまりにも有名ないわば雲の上の人。是秀翁は入念美麗な仕事で刃物の神様とまで尊敬され慕われた方です。私は胸がわくわくして仕事が手につかなくなったのを覚えています。
 当時、少しは好転していたものの、まだ食料事情は悪かったので、米処越後のお土産にはお米が一番と思い、ちょうど穫れはじめた新米を友人から分けてもらいました。
玉鋼の研究で有名な岩崎航介先生に入門を許されていた金三郎さん(与板の刃物造りに科学的研究をとりいれた先駆者として黄綬褒章・勲六等瑞宝章を授勲・伝統工芸士)が、当時のお金で確か6〜7万円はしていた金属顕微鏡を持っていて、それをリュックサックに入れてかついで出発し、翌朝東京に着きました。金三郎さんは戦時中から東京に住み、地理には詳しかったので迷うことなく延国さん宅にたどり着きました。我々を迎える準備万端整えて、家族一同(息子さんの兄弟)が待っていて下さいました。
 初めてお会いした時の延国さんの暖かい笑顔に、私の緊張した気持ちがほぐれ少し和らぎました。ご挨拶を終え、お茶を頂き、早速工場に入って内部の説明をしていただきました。
同じ鍛冶場でありながら、すばらしく合理的に機械や道具が配置してあり、一台にスプリングハンマーの両脇に炉を二つ築き、二人で利用できるように考えてあるなど、すべて狭いところを効率良く整えられているのに感心しました。
かなとこ鉄床が南北に据えてあったがどうかは土地勘のない私には確認できませんでした。「地磁気の影響を受けるので」と据え方のこだわる鍛冶職もいます。それはそれでもっともなのですが、私は南北に鉄床を据えるのは、南に向かって仕事をしますと光線の具合で鍛冶製品の肉取りや狂いなどが良く分かり、仕事がしやすいからだと思っています。
 延国さんの鍛造は、まず鉋一枚分に切断した地金(練鉄)を松炭の熱で赤めます。炉はコークスの強い火力を避け、玉鋼の沸かし付けに近い方法で行っていました。地金造りの最後は十文字に目を入れた小槌で鋼の乗る部分をギザギザにして、鍛接材が流れ落ちないように考えられていました。鍛接温度はできるだけ低温で処理され、コバ(側面)は鋼の組織が乱れるので打たないと聞きました。鍛接で幅の広くなった部分はタガネで切り落としていました。
やはり名工の名に背かず、何回もくり返して鍛えて、最後に藁灰で焼鈍して仕上げはできるだけグラインダーなどは使わず、センやヤスリを使っておられました。この後が問題でした。「今度は君が越後の鉋造りをやって見せてくれ」と言われて地金を出されたのです。私は泡を食いました。まだ一年半程の経験しかなく、自分の道具でも満足に使いこなして仕事ができないのに、名工の前で慣れない道具を使って、とても作業ができるものではありません。顔を赤くしてご勘弁願いました。
 延国師の作業が進んで、いよいよ焼き入れの段階になりました。焼入場は回りを全部囲って、中は真っ暗にしてあり、一ヶ所だけ小さい窓が作ってあって、鉋の焼き入れ後の狂いなどが見やすいようにしてありました。私は遠慮して炉の脇で見ていました。延国さんは「そんなところで見ていて何が解るか。ちゃんと私の後ろに来て肩車になって見ていなさい。」「そうでないと本当の赤みや鉋を置く位置がわからんではないか。」と。自分の親方でも「焼き入れ」となると、まともに見せてもらって、教わったことがない人がほとんどではないでしょうか。それなのに弟子でもない私のような若造によくもここまで手に取るように教えて頂けたものと、ただただ感謝感激し、その時この名工こそ私の一生尊敬し続け教えを請う方、と心にきめたものでした。そして一日が終わりに近づき、延国さんのお宅で夕食をご馳走になり、いよいよ千代鶴是秀翁野ところにお伺いしました。

千代鶴是秀翁にお会いして
齢の体力によるためか、もはや当時は鉋はあまり造っておられず、剃刀や小刀など美術的と言える小物を造っておられたようでした。そしてポツリポツリ話が始まりましたが、鉋造りのことは延国師のところで見たり聞いたりしただろうと思われたのか、砥石の話になりました。京都の梅ケ畑山の本山・合わせ砥の戸前とか、巣板が鉋に向いているのではないかといった、砥石の話に花が咲きました。その頃私とすれば、是秀翁の鉋の焼き肌がなんとも言えない味をたたえているのにひかれていて、その金肌がどうして出るのか、また外国の鋼と国産の鋼の違い、炭素鋼と特殊鋼の話などを少しでも語っていただくことができればと、期待と夢を抱いていて、恐る恐るお聞きしたのですが、とうとう一晩中砥石の話で終わりました。しかし最後に一言「刃物は刃が付かなかったら切れないんだよ」と刃物の一番大事なことを教えていただいたのでした。平凡な一言ですが、本質をついた非凡な真理を含んだ言葉に電気に打たれたような感じがしました。
硬度を試す
 そして翌日は前日造られた鉋の組織がどの程度できたかと顕微鏡で確認したり、私が一枚持って来た鉋の刃鋼の組織と見比べたりしました。さすが名工であるだけに、難しい炭素鋼にもかかわらず、組織は見事に球状化されていたのが印象に残っています。私の作は特殊鋼であったため球状化しやすく、また焼入性もよいので、何とか恥をかかずにすみました。そして話は焼入硬度にに進みました。顕微鏡で焼入組織を見ればある程度まで硬度の見当が付きますが、確実なとこらは解りません。ところが延国師はガラス板と化粧品のクリームの瓶を持ってこられて、それを鉋の刃の角で引いてキズのつき具合で判断し、「クリーム瓶は何度だからこの刃の硬度は何度以上ある」とか試し、およその見当を付けておられました。
 私は延国師にお会いして、名工といわれるまでになるには、みな並大抵ではない苦労と研鑚を積み重ねておられるのだとつくづく感銘を受けました。帰りにお土産だと言って、三種類の舶来鋼を頂き、おいとまいたしました。その後延国師も金属顕微鏡を購入され、私もその後顕微鏡と硬度計を購入し、金属組織と対話しながら鉋造りを続けています。
勉強になる削ろう会
 今こうして削ろう会で皆さんと一緒になって鉋を研いだり削ったりして、何ミクロンの削り華が出たと喜んでおりますが、それはそれでその刃物がすばらしい良い刃が付いた証であります。もちろん研ぎの技術、砥石とのつき合方、鉋台の調整、引く技術のすべてが高いレベルの技で一致していることを物語っています。
 良い刃先により早く研ぎ上がり、より長く切れ味が続くこたが大切で、刃物の理想です。切れ味が永く持続するように、硬い粘り強い刃鋼にすれば、研ぎ上げるのに時間がかかります。研ぎやすくすれば刃持ちが悪く、長切れしないのです。その矛盾する二つの条件をどうすれば解決できるのか、どこに解決点を求めるか、私共鍛冶職にとっては大きな課題ですが、鉋を使われる方との削ろう会での交流は、生の意見を聞くことができて、非常に良い勉強になり、切磋琢磨の良い機会だと思っています。
 来たる平成12年9月23日(土・秋分の日)と24日の二日間、削ろう会与板大会が開かれます。小さい町で大したことはできませんが、400年以上も刃物の伝統を守り、大工道具の産地として今も頑張っている姿を従来なかった鍛冶場探訪で見ていただきたいと思っています。心からご参加をお待ちしております。    以上

ライン

名工を訪ねて その二
石堂輝秀翁を訪ねて

                               碓氷 健吾   「削ろう会」 会報 vol.17 掲載

生地の山に驚く
 前回の落合延国翁と千代鶴是秀翁の話と順序が入れ替わった思いがしますが、石堂家は七代石堂是一(政太郎)から、八代石堂是一(助太郎またの名を寿永)に続きます。両者とも刀剣師であり、明治の廃刀令の後、野鍛冶を経て道具鍛冶に転身しました。寿永は九代石堂秀一翁(寿永の継嗣、眞勇美)と千代鶴是秀翁(加藤廣)という、不世出の二人の名工を育て上げた師匠であります。
 その後、継者の石堂輝秀翁(菊地清一)が活躍されていた時代に、当時与板金物共励組合の有志が集い、東京の鍛冶師のところへ研修旅行に参りました。私は以前一度お会いしたことはありましたが、そのとき初めて輝秀翁の工場を見学させていただきました。
 昔から名工といわれる方は、皆金銭のことを頭において物造りを致しては相成らぬと教戒されてあり、貧しい生活に耐えてこられたと聞いていましたが、石堂さんの工場は非常に広く、またその一角に山のように鉄が積んであって私など呆然と見とれていました。目を見張りよく見ますと、何とそれは全部が練鉄(生地=なまじ)ではありませんか、その量に本当に驚きました。そして火床には昔ながらの鞴(ふいご)による、横吹き焼き入れ炉が吹き上げていたように記憶しています。現在の石堂家の当主石堂秀雄さんがスプリングハンマーを使って鉋を打って見せてくださいました。それが終わって住まいの応接間に招かれましたが、その住まいもまた当時の私には御殿のように思われた立派なもので、流石は代々の名門だけあって素晴らしいなと感心しました。
石堂輝秀翁は常に経営も念頭に
   応接間でお茶を戴きながら先程の練鉄(なまじ)の話に移りました。聞くところによるとある建造物が解体されるので見にいったところ、それが練鉄であることがわかり、石堂さんが全部買い取られたとのことでした。それを聞いてその度胸と資本力に私共田舎鍛冶は驚くとともに感服した次第です。
 石堂輝秀さんは名品を造るばかりでなく,常に経営に関しても心しておられたと思います。あるとき延国さんと輝秀さんと私が、昼食を共にする機会がありました。そのときのことです。もともと輝秀さんは何事においても歯に衣を着せることなく、ずばり核心をつくお話をされる方でした。私への教えを込めて話されたと思いますが、『おい延国君や、君は確かに僕の鉋の何倍もする高級品や、よい価格の鉋を造っているが、少し景気が悪くなってくると、全部売るには大変苦労をしているのではないか。僕は特別品以外は少し安くしているので造った鉋は全部売れる。どっちが良いかな』と話されました。この謙虚さを秘めた一言が私にとっては後々良い教訓になりました。
 とかく職人は人様から腕が良くなったといわれ、マスコミに載って名前が世間に知れるようになると,実際の製品の価値よりも名前に乗じて,高く評価されようとするのが常で,特に商人において便乗されることが多いのではないでしょうか。
 あるとき、伝統工芸品関係の方が我が家に来られたとき、『展示会などにおいて○○産地の製品は非常に高い値段がついているが、お宅は案外安いように思える。何故でしょうか』と聞かれました。同席していた私の家内がすかさず脇から『鉋はあくまで仕事の道具であって美術品や芸術品ではありません。刃物は一所懸命に造って自信は持ってはいても、良く刃が付いても、“絶対問題がない”と言うことができない要素を含んでいます。刃鋼の質や炭の質、加熱の仕方、熱履歴、鍛造・鍛錬の技術、焼き入れ、焼き戻しの技術など、いろいろな条件が複雑に絡み合って、それが全て良く整ってこそ切れる鉋といわれるのです。皆様の買いやすい値段で買って戴き、大勢の方に使って喜んで戴ければ鍛冶職人として本当に嬉しいのです』と答えてくれました。お蔭様で製品の販売には殆ど苦労がなく喜んでいます。お互いに適正な価格を守って行きたいと考えています。
名工の焼き入れ
 神戸の竹中大工道具館が昭和59年開館して以来毎年亜季に開催されている、『技と心』の講演会において、現役鍛冶師として第一人者の白鷹幸把伯さんが十数年前刃物道具について講演されたことがあり私も参加しました。やはり昼食のときだったと思いますが、白鷹師いわく『オイ碓氷さんや、かつての現役の鍛冶師の中で千代鶴是秀翁の焼き入れを見た人がいるだろうか、もし見た人がいるとしたら石堂輝秀さんではないかな』と言われました。確かにそうかも知れませんが、私は石堂輝秀さんは見なくても千代鶴是秀翁の焼き入れ法は熟知しておられたと思います。その訳は九代石堂秀一翁が体調を崩された後をうけて、お弟子の輝秀師が秀一翁に代わって石堂家を支えて来られたからです。
 時を経て晩年の輝秀師にお会いし、焼き入れの話になったとき、『今でも焼き入れは僕がやっているよ、炭こわしも自分でしているよ』といわれ、『同じ松炭でも少し堅いものもあれば柔らかいのもあるから、その具合によって少し大きさを変えてこわす。場合によっては混ぜて使う』また『自分の焼き入れ法や、鋼によって適した方法でやらないと、満足の行く良い焼き入れができないよ』と伺いました。
  年月を経て、他の人から聞いた話によると、ごく暑い夏など乾燥が強い時は焼き入れの炉の回りに水を打つとのことです。ある刀剣師は夏は雨上がりが焼き入れには一番良いと申されたのを覚えています。このように私共の先達者、なかでも名工といわれる方々はほんの僅かな細かいところまで、緻密に気を配って努力して来られたために、切れ味といい、形や焼き肌の美しい味わいといい、素晴らしい風格のある名品を残してくださいました。後世の我々はその成果を賜物として、ただただ敬服し教訓を得て参りました。
お礼
 昨年秋の第8回削ろう会与板大会開催に際しましては、遠くは九州・四国・北海道、更にアメリカからも大勢の方々がご参加、ご協力くださいましたことを誌上をお借りして深くお礼申し上げます。
 ご承知の通り与板は小さな町で適当な施設がなく、工場見学にしても狭い工場故にご不便をかけ、不手際も多々あったと思いますがお許しくださるようお願い致します。
  またいろいろ実演してくださいました方々に心からお礼申し上げます。今回はご婦人方が小鉋の削りに挑戦して、鉋削りの認識をあらたに広めて戴き、大会を盛り上げてくださいました。大変ありがとうございました。
 大勢の見守る中で行われた大鉋の削りは見事の一言に尽き、20世紀の掉尾を飾るにふさわしい真に世紀の削りであり、大工道具の歴史に残る記念すべき1ページであったと思います。
 明けて21世紀においては心と技を新たに、削ろう会の一層の発展をお祈りし、ますます盛大な会になるよう心から願っています。
最後にお願い
 私事で誠に恐縮ですが、ここまで健康に歳を重ねて参りましたが、最近とみに体力の減退を感じ、腰痛が進行し、また思考能力・記憶力の衰えも感じ始めました。何かと皆様にご迷惑をかけることが生じるのを恐れ、削ろう会与板大会を機に現役から引退させていただきたく存じます。
 今後は楽しみながらゆっくりと気の向いた物造りをして行きたいと思います。機会がありましたら気楽に遊びに来てください。長年にわたり、私の鉋をご愛用下さり、何かとご教示ご鞭撻たまわりましたことを感謝し、心からお礼申し上げます。 以上
この碓氷さんのお願いの文章にビックリされた人からお問い合わせのメールが来ています。
碓氷さんに確認いたしましたところ『削ろう会』への出席や各地での講演会などの行事への参加を遠慮するとの事で鉋造りをやめるということではありません。
ただ生産量が以前より少なくなり、取引先をかなり絞られたようです。
幸い当社は『橘さんの注文は自分がやめるまで造ってやるから心配しなくていいよ』と言っていただき感謝しております。
納期に関してのお問い合わせもありますがトップページに示しているように1〜2ケ月の状況です。
二寸などの寸法によってはもう少しかかる場合もありますのでよろしくご了承ください。

                        葛k産業 石黒敏正 (H13.2/25)


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名工を訪ねて その3
千代鶴貞秀翁を訪ねて

                                              碓氷 健吾   「削ろう会」 会報 vol.19 掲載

 前回までは関東、いわゆる昔の江戸職人の名工について出会いを思い出して書かせて頂きました。まだ関東には鑿鍛冶では現在日本一と云われる、市弘翁や、鉋・包丁で有名な会津の重延翁を始め、立派な方々がおられますが、次回削ろう会開催地は島根県の安来市ですので、三木の名工で故人になられた方にお会いした時の事を思い出して見たいと思います。
謎の 二代目千代鶴
 私ども越後の鍛冶職人を始め、関東においては三代目千代鶴延国さんは製品の流通関係上、身近によく耳にしたり又、実際に作品を手に取って拝ませて頂くことが出来ました。その時必ずと云ってよいほど、三代目千代鶴あって二代目はいったい何方なのか、ある一部の方はご存知だったと思いますが、我々末端の鍛冶職人には千代鶴是秀翁の息子さんの千代鶴太郎さんなのか謎めいていましたが、大工道具の歴史で有名な故村松貞次郎先生の昭和50年頃よりの毎日グラフの道具曼陀羅で初めて、二代目千代鶴貞秀翁(神吉義郎氏)を知ることが出来、又その時の「比良の夕映」の鉋が赤樫に立派な台にすげられて写しだされており、さすが名工の鉋だけあって重厚な風格をたたえておりましたこと、今でも私の頭の中に焼き付いております。
 そして私に、昭和48年11月8日の夕方突然、村松貞次郎先生が訪ねて下さり(その時私共夫婦は田舎鍛冶丸出しの話し合いになり色々のエピソードがありました)その御縁で、神戸の竹中大工道具店とのつながりも出来まして、後ほどに「比良の夕映」の名品も手に取って拝ませて頂くことが出来ました。
鋭い観察力
 たしか、昭和50年12月の暮れと思います。越後は朝からドシドシと雪が降り始め、これは大雪になるかと思っておりました午後、ある地元の金物商の方と一緒に恰幅の良い一見して職人と思われる方が見えられ、名刺をお出しになりました。よく見ますと、なんといつかお会いしたいと思っておりました二代目千代鶴貞秀翁ではありませんか。どうぞ住まいの方へと云ったのですが、「今日は少し鉄屋さんに用があって来たので、又、雪のため車が動かなくなると困るから挨拶だけで」と云われ、仕事場にて少し立ち話をして帰られました。そして数日後、お電話があり「君のところに銑を研いだり、又、鉋の裏を生研ぎする笹口の荒砥があった様だが、少し分けて貰えないだろうか」と話され、又、「こちらの鉄屋さんに釜地(ボイラー)が1トン位あるが少し薄いので僕には向かないので、もし君が使えるようだったら買ってくれないか」と申されたのですが、わずか私の仕事場で数分間の立ち話をしている間に、私がどのような道具を使ってどのような鉄を使用しているか見抜かれたのです。さすが名工ともなると鋭い勘と眼力を養われておるものだとつくづく感服したものです。
こだわりに撤した頑固さ?
 荒砥で何故、鉋の裏を生研ぎするかと申しますと、現在は一般的にはペーパー車とか、バフにて研磨していますが、ペーパーは新しい時は目が粗くてだんだん使用していくと目が細かくなります。したがって焼き入れの時のドロ塗りに濃淡の差が出たり、冷却の速度に差が出やすいのです。(今はそれに対応してボカシを入れますので心配はありません。)荒砥の場合は次から次と新しい砥石の目が出てきますので最初も最後も同じ状態になるのです。又、ペーパー車で裏透き研磨をしますと、正確な円弧の内円になりますので鉋の裏出しが楽なのです。又、不思議に錆びにくいのです。そして、なんとも云えない渋い色合いが出て、又、一見して焼きムラ等も判りますので手作りの良さがこのへんにあるのではないでしょうか。
 そしてその後も、私も千代鶴貞秀翁をお伺いする機会があり、商工会議所の前の公衆電話で連絡を取ったところ、「丁度良かった。一週間位湯治場へ行っていたのだが、何故か今日帰りたくなり、今帰って来たばかりだ。やはり君が来るのを虫が知らせたのかなあ」と云って「そこを動くな」と云って温かく迎えて頂き、又、その住まいがなんと千代鶴貞秀翁とまったく同じく整理整頓はしてあるものの古ぼけた畳で薄暗い座敷で奥さんが笑顔で迎えて下さり(現在は立派な新居です。)貞秀翁と、お酒を酌み交わすことができました。
 その後、仕事場に案内され、何も云わずに、たった一枚の鉋の鋼を渡されたのです。そのたった一枚の鋼には、貞秀翁の技のすべてが凝縮されていたのではないかと思いました。それは、現在のローラーによる圧延技術で、2分厚×1寸6分巾の厚い鋼を約2.2ミリ厚にした物と寸分の違いなく、打伸された物でした。又、その鋼も後ほどある鋼材屋さんからお聞きしたのですが、スウェーデン鋼のK120の木炭還元の特殊鋼とのことでした。(私もこの度木炭還元の炭素鋼を少し手に入れる事が出来ました)貞秀翁は当時私に「木炭で生まれた鋼以外一切使わない。」又、「木炭で生まれた鋼は木炭で鍛えるべきでコークス等は使用しない」と云っておられました。名人気質に撤した頑固さ故にあの様な逸品が生まれたのでは・・と思い知らされました。 
皆で守ろう訪問のマナー
 奥様と三人でお茶を頂いている話しの中で、私が訪れる前に、二三の人が事前の連絡もなく、又、一言の挨拶、了解も得ずにズカズカと仕事場に入られた様です。ご夫婦は大変憤慨されていました。私が思うには、決して、貞秀翁は秘伝技術や技法を人様に見せたくないのではなく、自分の心の中を無断でのぞかれた気持ちになられたのでしょう。お互いに訪問のマナーをしっかり守り、お互い気持ちよく交流したいものです。
                                             (次回は坂田名人と東郷鋼について)
 
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 名工を訪ねて その4
「坂田春雄翁と東郷鋼」


 碓氷 健吾   「削ろう会」 会報 vol.23 掲載

名を聞きし名人 坂田春雄翁
 私は全国利工連大会に行きますと、よく三木市の鍛冶師仲間から坂田名人の話を耳に致したのですが、当時私は三木市及び関西方面のことは詳しく知らなかったので、「王将」の歌のテレビでドラマ化した坂田名人をなぞったのかと思っておりましたが、本名が坂田春雄で、関西方面では大工の棟梁と名が付いたら坂田春雄銘の鉋を持っていなければ棟梁と言えないとまで言われた凄い腕前の名工である事を知りました。そして京都大会の時と思いますが、現在「削ろう会」で活躍されている山口鍛冶師か、故山本鍛冶師かと思いますが、「君、あの人が坂田名人だよ」と指を指され、お会いしてみるかと言って下さいましたが、当時の私にはとてもまだ受入れ態勢が出来ていなかったので御遠慮申し上げ、遠くから御姿を拝見させて頂いた次第でした。
ちびた鉋 東郷鋼
 ある時、大阪の知人である宮大工、石田棟梁が拙宅においでになり、「坂田春雄翁の銘の入った鉋はほとんどが使い尽くされて、ほんの僅かに鋼が残っているちびた鉋、これは素晴らしい切れ味だったよ。顕微鏡で覗いて見たら。」と、言われ、早速調べましたところ、見事な球状化組織になっており、又、複炭化物も出ており、東郷鋼の0号とのことでした。大阪の天王寺の角兵衛金物店(角谷新次)さん御主人が私に「千代鶴是秀翁の鉋と切出しをお貸しするから参考のために顕微鏡で覗いても、硬度を測っても良いから終わったら研ぎ直して送り返してくれ」と貴重な宝を貸して下され、顕微鏡写真を撮らせて貰いました。その鉋と言うのは、千代鶴是秀翁は非常に蘭を愛好され、又角谷さんは蘭にかけては全国でも有名故に、是秀翁は大阪や三木市に行かれると必ず角谷さんのところにお寄りになり、蘭の話しに花を咲かせておられた様で、昭和23年に「蘭契」と銘打った鉋、当時のお金で寸八鉋一枚、金五阡円で、又その領収書が色紙に毛筆で書いてお渡しになったのです。その写真も撮らせて頂いたのですが、いつの間にか無くなりました。その蘭契の鉋が是秀翁には珍しく、特殊鋼を使用されており、私の感じでは東郷鋼の0号ではないかと思っておりましたが、まさしく坂田名人の東郷鋼と同一の様でした。当時大正から昭和にかけて大分出回った鋼ですが、サイズ等によって多少成分が異なっておったようで、東郷鋼の0号で1分厚×1寸4分巾と4分厚×6分巾の鋼が非常に優れて鉋に向いていたのですが、その鋼を完全に使いこなされる鍛冶師も又、全国で何人もいなかったと言われ、それでさすがに坂田名人と言われる由縁がわかった様な気が致しました。
まさかの坂田名人の御来宅
 昭和52年頃の春かと思われますが、丁度家内が東京の子供達の所に行き留守で、又、私も親戚の法事にあたり支度をしていると、何方か訪ねてこられたようですので玄関に出て名刺を頂いたのですが、一見して紳士的で鍛冶師とは思われなかったのですが、名刺には坂田春雄と書いてあるではありませんか。折角遠く三木市からおいでになったので親戚に電話をし、1時間位時間を頂き、家に上がって頂いてお話を伺いました。日立金属から私と同じ青紙スーパー鋼を500kg位購入されていたので、使用方法をお聞きしたら、これは新潟県の碓氷鉋鍛冶が特別注文された鋼故、碓氷鉋鍛冶のところへ行かれた方がわかり易いのではないかと申され、不躾で突然伺い誠に申し訳ないとも言われましたが、私にとっては、願ったり叶ったりで、お会いできただけでも幸せですと申しました。そして是秀翁の蘭契の鉋と坂田さんのちびた鉋のことを申し上げ、あまりの素晴らしさに刺激され、この鋼は実は、その時の顕微鏡写真を日立金属の住田技師、元の和鋼記念館館長に見て頂いて、これと同じになる様、お願いして造って頂いた鋼ですので、坂田さんの東郷0号と同じ要領で御使用して見て下さいと言いましたら、「そうですか、ありがとう」と礼を申され、お帰りになろうとされましたので、私もこの機会にいろいろなことをお聞きしたいと思い、1時間位他の鍛冶屋さんを見て頂き、又来て下さいと申したのですが、又改めて参りますと辞退され、与板の鍛冶屋さん二、三軒を見学されてお帰りになられ、後日、毛筆でしかも達筆な字で金沢の兼六公園を見て帰りました、と礼状を頂きました。
次代を見越した後継者の思い
 昔から名工と言われる御方はとかく気丈で一徹の頑固さがあり、自分が全てを思う様に手を通さないと気がすまない気質があり、なかなか後継者には全てを任せることができず、したがって急に何かの出来事があり、仕事ができなくなると、後継者が非常に苦労される様で現実に私も目のあたりに見たり、聞いたりしています。よく千代鶴是秀翁は、息子さんの亡き後、太郎運寿鉋を代作されたことで有名ですが、坂田翁は早くから御自分の鉋は坂田春雄と銘を打ち、憲治さんは憲治作と銘を打っておられたのですが、なかにはこれは良く出来たと思った鉋には、憲治作と銘を打たれたそうです。そして60才で仕事を憲治さんにお譲りになった様です。次代後継者に伝統的技術技法はもちろんのこと、私共も学ばねばならないとつくづく痛感致しました。
三木市の鍛冶めぐりと東郷鋼
 この度、訓練校の先生、奈良の前野さん御夫婦が大阪から同行運転して下さいまして、腰痛のため、最後の旅となるかと思いますが、去る6月15日は島根県の和鋼博物館・日立金属工場を見学しました。16日が、三木市に行き、山口さんが三木市の鍛冶師と台屋さん等の話し合いの場をつくって下され、又一晩御厄介になり、山口さんの工房を始め、鉋鍛冶・ノミ鍛冶・台屋さん等の仕事場を見学させて頂きました。そして一度は見学致したかった坂田さんの仕事場を見せて頂き、私の想像通りの仕事場でした。しかも鉋の鍛接から鍛錬・焼入すべての工程を、全て木炭を使用し、昔の伝統そのままを守っておられ、先代が刀鍛冶あがり故、炉はフイゴによる横羽口でしかも焼入炉は、手前の方に風が廻る様に工夫してあったと思います。これは鉋の頭部が厚いのでそれらを考慮されてと思います。やはり名人と言われるだけの人格者だけあって、僅かなことでも気を遣っておられたことが伺われました。又、宮本さんも同じく木炭にて全てを行っておられました。
 そして、削ろう会の高田さんから貴重な東郷鋼の6分厚と坂田さんから、昔の1寸4分巾と5分角の東郷0号を頂いて来ました。
 鉋の写真(注:ここでは省略)は、坂田春雄翁作の鉋ですが、東郷鋼かはわかりません。私のちびた鉋がなくなったのでお借りした鉋です。

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